秀吉の死後、5大老の一人である徳川家康はその力を強め、天下取りへと動き出しました。
そして、石田三成をはじめとする豊臣家家臣との対立を深めました。このとき景勝・兼続は石田三成との交流から、反家康側であり、慶長5年(1600年)3月、家康は越後の堀秀治、出羽の最上義光らにより、会津の上杉景勝に不穏の動きがあるとの報せを受け、景勝のもとへ、「上洛して説明するように」と伊那昭綱を使いとして、派遣しました。
しかし景勝の重臣・直江兼続は挑戦状ともいえる、「直江状」という有名な手紙を返書として送ったことで、家康は激怒し、上杉家討伐を宣言しました。
そして、軍を率いて上杉征伐に出征し、まさに決戦というとき、家康軍に「石田三成が徳川を討つために兵を挙げた」という報せを受けて、軍を反転させて、上方へ向かいました。景勝と兼続は、家康が軍を引きあげるという報せを聞き、これを追うべきか、見送るべきかで議論しましたが、「追い討ちは謙信公の教え(義)に背くこと」として、上杉軍も会津へ引き上げることを決定しました。そして、徳川家康は、美濃関ヶ原で石田三成軍と戦い、家康軍が勝利しました。
そして、石田三成をはじめとする豊臣家家臣との対立を深めました。このとき景勝・兼続は石田三成との交流から、反家康側であり、慶長5年(1600年)3月、家康は越後の堀秀治、出羽の最上義光らにより、会津の上杉景勝に不穏の動きがあるとの報せを受け、景勝のもとへ、「上洛して説明するように」と伊那昭綱を使いとして、派遣しました。
しかし景勝の重臣・直江兼続は挑戦状ともいえる、「直江状」という有名な手紙を返書として送ったことで、家康は激怒し、上杉家討伐を宣言しました。
そして、軍を率いて上杉征伐に出征し、まさに決戦というとき、家康軍に「石田三成が徳川を討つために兵を挙げた」という報せを受けて、軍を反転させて、上方へ向かいました。景勝と兼続は、家康が軍を引きあげるという報せを聞き、これを追うべきか、見送るべきかで議論しましたが、「追い討ちは謙信公の教え(義)に背くこと」として、上杉軍も会津へ引き上げることを決定しました。そして、徳川家康は、美濃関ヶ原で石田三成軍と戦い、家康軍が勝利しました。