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直江兼続相関図|上杉景勝

 上杉景勝は弘治元年(1555)、越後魚沼郡上田城に生まれました。幼名は喜平次顕景(きへいじあきかげ)といいました。父は長尾越前守政景(ながおえちぜんのかみまさかげ)、母は長尾信濃守為景(ながおしなののかみためかげ)の娘で、謙信の姉にあたります。

 景勝は上杉謙信の養子となり、家督相続の争いに勝って上杉家をつぎました。近習の直江兼続とは幼少より実の兄弟のように育ち、共に謙信を戦国武将の鑑として敬崇しました。
才気煥発な兼続の良き理解者であり、能弁な兼続とは全く対照を為す寡黙で厳格な主君でありながら、人情に厚く、常に「義」の心理を貫いて強者に屈せず、決断力、行動力にも優れ、武将としても有能でありました。景勝の領地は旧蒲生領に出羽国庄内3郡を(山形県)を加え、豊臣政権下にあって徳川240万、石毛利120万5千石に次ぐ天下第3の大名であり、5大老の一人となりました。また、景勝の重臣となった直江兼続は豊臣秀吉に愛され、景勝の領地の内30万石(山形県)の大領地を与えられ、石田三成と親交を深めました。

 秀吉が慶長3年に亡くなると、5大老の一人である徳川家康はその力を強め、石田三成をはじめとする豊臣家家臣団との対立を深めました。この時景勝は三成との交流から反家康に傾斜していきます。
 直江状がきっかけとなり、ついに家康が会津攻めを決断しました。家康の軍が京都を出たと知った景勝は、北の伊達政宗や最上義光、南の家康に備えるために国境の警備に全力をあげました。そして、景勝を討つために北上した家康の背後を襲い、南北から挟み撃ちにしようと三成は反家康の兵をあげました。この報せを受け、家康は下野国小山(栃木県)から江戸へ引き返し、西へと向かいました。

 こうして、慶長5年9月15日、家康は天下分け目の関ヶ原合戦に臨み、三成以下の西軍に大勝しました。
 この結果伊達氏、最上氏、堀氏などの近隣諸侯を相手に奮戦していた景勝も家康の軍門にくだり、慶長6年(1601)に会津120万石から出羽国米沢30万石へと減封されることとなりました。

 減封後、家老の直江兼続と二人三脚で米沢藩の藩政確立に尽力しました。 元和9年(1623)3月20日、米沢で亡くなり、遺灰と衣冠は山形県米沢市の御廟の上杉家御廟所に、それぞれ納められています

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