米沢を物語る四大名
西暦1530年〜1578年
春日山城で亡くなった上杉謙信の遺骸は景勝の手によって米沢城の東南角に埋葬され、祭られました。謙信は米沢で神格化され、「敵に塩を送る」ということわざを生んだ謙信の義を重んずる精神は、城下町米沢の気風として今も残っています。武田氏滅亡後、信玄の子や家臣たちが上杉氏家臣となり、米沢にやってきました。
西暦1555年〜1623年
上杉謙信の甥。豊臣政権の五大老で、会津120万石の大守でしたが、秀吉の死後、同じ五大老の徳川家康と対立しました。関ヶ原の戦いの後、初代米沢藩主(30万石)となりましたが、キリシタン処刑を命ずる徳川幕府へ「当領内には一人のキリシタンも御座無く候」と答えて拒否したとされています。
西暦1567年〜1636年
伊達氏の17代。米沢で生まれました。18歳で当主になると、5年余りで奥州66郡のおよそ半分を手中に収めましたが、豊臣秀吉によって国替えになりました。また、ヨーロッパと貿易すべく、家臣をローマ法皇の下へ派遣しました。後年、米沢を通過の折、「故郷は夢にだにさえ疎からず」と望郷の歌を詠んでいます。
西暦1751年〜1822年
高鍋藩(宮崎県)秋月家の次男として江戸で生まれ、江戸で育ちました。祖母の実家・上杉家の養子となり17歳で9代米沢藩主になりました。大倹約の断行、産業振興、学問の奨励などにより藩政を改革しました。仁による政治を行い、「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬなりけり」の有名な言葉を残しています。