山形県米沢市|戦国武将と米沢市の観光情報

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上杉謙信−米沢藩の祖 戦国の名将−

 蒲生氏郷(がもううじさと)の後を継いだ秀行(ひでゆき)が豊臣秀吉によつて宇都宮に移され、それに従って蒲生郷安(さとやす)が米沢を去ったのは慶長3年のことで、その後に、越後から上杉景勝が会津百二十万石の領主として迎えられ(米沢三十万石は景勝の家臣直江兼続に与えられました)、明治維新まで272年の間、米沢は上杉の藩政の下にありました。この上杉氏の祖といわれているのが上杉謙信なのです。

 謙信は長尾為景(ためかげ)の第二子として亨禄3年(1530)1月21日越後春日山城(新潟県上越市)に生まれました。長尾氏は越後守護職上杉氏を補佐する守護代の役をもつ家柄でした。謙信は幼名を虎千代(とらちよ)といい、元服して平三景虎(へいぞうかげとら)と改め、その後京都大徳寺から宗心(そうしん)という法号を受けたので、長尾入道宗心と称し、みずから不識庵(ふしきあん)と号しました。

 永禄4年(1561)32才の時に、関東管領上杉憲政(のりまさ)の譲りを受けて上杉氏を相続し、上杉政虎と改名しました。また、足利将軍義輝(よしてる)の一字を賜わり輝虎(てるとら)と改め、元亀元年(1570)41才の時に謙信と称しました。謙信は文武両道に秀でた戦国時代の名将で、正義を重んじた真の英雄でしたが、天下の平定を前にして、惜しくも、天正6年(1578)3月13日、49才で亡くなりました。
幼少の項
 父長尾信濃守為景(しなののかみためかげ)は、越後守護職上杉定実(さだざね)を援け、越後一帯を統率していた豪傑で、母は親類にあたる栖吉城主長尾肥前守顕吉(すよしじょうしゅながおひぜんのかみあきよし)の娘であり、知恵もすぐれ、学問や武芸にも秀でた方でした。ところが、一人息子の晴景(はるかげ)は、どういうわけか気性が劣り体も弱く、それが親の心配の種でしたが、晴景が19才の時、弟が生まれました。これが謙信なのです。父為景は、この子を何とか強い子に育てたいと考え、寅歳でもあったので名を虎千代とつけました。

 虎千代は、兄とは全く違って、悧巧で丈夫な子どもでした。4才位から、普通の子どもとは比べられないほど体格が大きく、気性も大人びていました。遊びをするのにも、常に年上の人を相手にし、相撲、組打ち、太刀打ちなどを常とし、大きな子が負かされて泣いてしまうという有様で、強い子をと願った親までも、あまりに乱暴なので困ってしまうほどでした。

 父為景は、春日山の城下にある林泉寺の天室和尚(てんしつおしょう)に預かってもらい、みっしり仕込んでもらおうと考えました。それは虎千代が7才の時でした。天室和尚は、連れて来られた虎千代を一目見るなり、その優れた天分を認め、越後のためになる宝よと喜びました。しかし、虎千代の乱暴は少しも直りませんでした。力だめしに墓石を倒したり、寺男のすきをねらって木刀で打ちこんだりするという始末です。ある時は、本堂で二人の兄弟子を投げとばし、組みついてはなぐるという喧嘩をはじめました。天室和尚は、たまりかねて、行ってこらしめました。

「本堂で、喧嘩をする奴はあるか。柱にしばりつけておくぞ」 すると兄弟子の一人は、「虎千代様が悪いのです。」と、虎千代の乱暴な振舞いを説明しました。虎千代はじっと聞いていましたが、兄弟子の言葉が終ると、「和尚さま、虎千代が相撲をしようといってはじめますと、後ろからもう一人が組みついてきました。だからそんな相撲はないといって、二人をこらしめているのです。」天室和尚は、虎千代の話を聞いて、乱暴には違いないにしても、子どもながらに道理のあることなので、叱りながらも内心ではたのもしく思うのでした。
 こうしたある日、突然父為景の死を聞かされました。父はこの年の8月に病気になり、兄晴景に家督を譲り、12月24日、66才で世を案じながら死んでいったのでした。

 虎千代は7才で父を失ったのです。虎千代は子どもながらに考えました。自分が乱暴なばかりに、年をとった父に心配をかけてしまった。申しわけがない。大きくなって、りっぱな大将になったところを見せたかった。お寺になど預けられなかったら、父の側におれたのになどと考えてきちんとすわった小さな膝の上に大粒の涙を落としていました。

 為景が死ぬと、上杉定実には実権がなく、世継ぎの晴景には力がないので、家来たちが、一時に謀叛をおこす気配がありました。為景の葬儀に加わった虎千代は、鎧・兜をつけて出なければならないほどでした。
 虎千代は、見違えるほど落ち着いてきました。天室和尚は、学問、書道など、教えることにも自然と力がはいります。こうして、天下の英雄と謳われた人物の土台が築かれていったのでした。
十四歳の初陣
 虎千代が14才の時でした。重臣の中には兄晴景に心服できず、独立しようと考える者がでて、それぞれに党派をつくる動きがありました。とくに長尾政景の動きは目立ちました。長尾政景は、晴景・虎千代兄弟には従兄弟にあたる人で、家老の筆頭として実力のある人でした。それだけに、晴景に代わって実権を握りたいと思ったのでしょう。この家老に味方する城主が方々で背きましたので、晴景は虎千代にその平定を頼みました。天文12年(1543)、虎千代は14才で軍勢を従えて討伐に向いました。土地に明るい虎千代は、縦横に敵を破って初陣をかざりました。

 晴景を侮った政景も新たな恐怖を感じはじめましたが、上杉氏や長尾氏を思う人々にとっては、大きな光明を得た思いで少年武将虎千代の出現を喜ぶのでした。
越後を統一する
 天文13年(1544)、虎千代は15才で元服し、平三景虎(へいぞうかげとら)と名を改めました。そして、栃尾(とちお)の城をもらって住みました。ところが、その翌年、長尾氏の重臣黒田秀忠が背きました。兄晴景を案じた景虎は、春日山城に帰り、兄晴景のもと諸将を集めて、黒田討伐を企てました。黒田秀忠は、その勢いに恐れをなして降伏してきました。景虎は安心して栃尾に帰りますと、天文16年、再び背きました。景虎は、信義を重んずる人でしたので、一度降伏して忠誠を誓いながら、機を見て謀叛をおこすようでは信用できない。信用できない者は家臣にしておけないと怒り、兄晴景と謀って諸将を従え、一挙に黒田秀忠の一族を滅してしまいました。

 この戦いで、18才の景虎は越後の諸将から大きな信頼と人望を集めました。ところが、景虎を恐れたのが長尾政景でした。また、兄晴景も人物が小さかったので、弟が兄の権力をしのぐことを恐れていました。これを見てとった政景は、晴景に讒言して言いました。「弟景虎様は、諸将を味方に引き入れて兄のあなた様を亡きものにしようとしています。戦いは先手をとった方が勝ちです。いっそ、当方から討って出てはいかがでございましょう」兄晴景は、我が意を得たりと政景の言を聞き入れました。政景は、六千の兵を率いて景虎の城に押し寄せました。景虎は早くもこれを知り、「振りかかる火の粉は払わねばならない。これもいたしかたのない運命であろう」と、武将を集めてむかえ討ちました。
この状況を知った上杉定実は、晴景に勧めて和を結び、晴景には子がないことから、弟景虎を養子として長尾氏の後を継ぐように計らいました。景虎はそれを承知しましたので、春日山において、兄晴景は弟の景虎と父子の義を結び、景虎に長尾氏を継がせました。時に天文17年(1548)12月、景虎は19才の時でした。越後中の諸将は、この盛儀を心から祝福し合いました。

 晴景はその後も病気がちで、5年後の天文22年、年42才で歿しました。すでに、上杉定実は天文19年に歿していましたので、景虎即ち謙信は、名実共に越後の国を治める領主になったのでした。謙信は亡くなった養父晴景のために、花岳院(かがくいん)という寺を建てて、孝心を表わしました。
国を思う真心
 謙信が19才で長尾氏を継ぐと、まず第一に朝廷に対して、そのことを報告するのを忘れませんでした。天文17年、謙信は花蔵院(かぞういん)と神与親綱(しんよちかつな)を使者として京都につかわし、皇室に金品を献上し、将軍足利義輝にも挨拶をさせました。義輝将軍は、謙信に書状をよせて、『京都に上って忠勤を致してくれるように』と勧めてきました。謙信はこの書状を受けて固く期するところがあるかのようでした。

 当時は、戦国乱世の時代でしたから、全国の大小さまざまな大名たちが、それぞれ武力の強化と策謀に明け暮れて、他を顧みることは困難なことでした。こういう時だけに皇室の衰微は大変なものでした。しかし、いずれの戦国大名も、京都に上り皇室を戴いて天下に覇を唱えたいと考えてはいましたが、他の利を得なかったり、他の大名にさまたげられて、自分の利害を顧みず皇室のために尽くすことのできる人はいなかったといってよいでしょう。この時に、謙信は敢然として自ら上洛を思い立ったのでした。

 謙信の父長尾為景は、後奈良天皇(ごならてんのう)が践祚(天皇の位をうけつぐこと)なされてすでに十年を過ぎても、まだ即位の式を挙げられないことを知り、多額のお金を献上しました。天文4年(1535)、長尾氏は、後奈良天皇より、錦の御旗を賜りました。これは御賜の旗と称し、今も上杉家の宝物として伝えられています。また、天文5年には、内乱を平定するようにとの宣旨(天皇の命令)を賜りました。長尾氏からは、そのころしばしば黄金や青銅を献上しています。

 また、長尾晴景に対しても、天文13年(1544)、後奈良天皇から真筆の般若心経一巻を賜り、現在上杉神社の宝物となっています。
天文17年、謙信は春日山城にはいって晴景の後を継ぎ、越後の国の領主となりました。後奈良天皇は、天文21年、謙信に従五位下の位を授け、弾正少弼(だんじょうしょうひつ)に任じました。謙信は翌天文22年(1553)9月、24才にして万難を排して京都に上ることを決意したのでした。群雄相争う戦国の世のことですから、越後をねらう敵がいつ攻めてくるかも知れない時に、越後の本城をあけて、遠く京都に上ることは誠に冒険の業であり、しかも、京都への道は八百キロメートルもあり、これが文字通り敵中を横断することになるのです。まさに身の危険を顧みない暴挙にも等しいものでした。しかし、謙信は越後国内の守りを固め、自ら手兵二千を率いて敢然として京都に上り、御所に参内しました。後奈良天皇は、たいそうお喜びになり、お杯とともに、御剣を賜り、争乱を平定するようにとの命を受けました。この時の御剣は瓜実の御剣(うりざねのぎょけん)と称して今に伝えられています。

 甲斐の武田信玄は信濃の国を侵略するため着々と計画を進めている最中でしたから、信濃に続いている越後の本城をあけることは考えられないことでした。このような時に、後奈良天皇が亡くなられ、正親町天皇(おうぎまちてんのう)が即位なさって、永禄元年を迎えました。ところが、この年武田信玄は川中島周辺に兵を集めてきます。謙信はこれを防ぐために川中島に軍を進めました。この時はわずかな合戦をくりかえして武田軍が引きましたので、上杉方も引き上げました。こういう緊迫した情勢でしたが、翌永禄2年(1559)4月、謙信は兵3千を率いて京都に向い、27日京都に入りました。まず将軍義輝に会い、5月1日参内し沢山の金品を納めました。正親町天皇は、お杯と御剣を謙信にお授けになりました。この御剣は五虎退の御剣≠ニいい今に伝えられています。今度は、さらに御所の修理のお金を献じ、自ら南門を復興し、8月まで京都に滞在し将軍をたすけて都の整備に努力しました。また、比叡山をはじめ神社仏閣を参拝して回り、関白近衛前嗣(このえさきつぐ)とは国家の将来を語り合って共鳴し合い、誓文を交わし、将軍からは武田信玄討伐の命令を受けました。
川中島の合戦
 甲斐の武田信玄が、信濃の国を侵略しようとしたのは、天文11年信玄の妹の婿諏訪頼重(むこすわよりしげ)を滅ぼしたときに始まり、信濃十郡を次々に攻撃し、最後まで抵抗していたのは南の木曾氏と北の村上氏でした。信玄は北信を手に入れようとし、天文22年(1553)8月、大軍をもって攻めました。城主村上義清は、勇戦奮闘しましたが、衆寡敵(しゅうかてき)せず大敗し、越後に謙信を頼って逃げ信濃の領地を奪い返してもらいたいと願いました。信濃は謙信にとって隣国であり、祖母の生まれた土地でもあります。謙信は信玄が理由もなく他国を侵略するのを怒り、村上義清の願いを聞き入れ、さっそく信玄に書を送って、旧地を返還するように勧めましたが、信玄は応じません。これが、上杉・武田両氏の川中島合戦を引きおこすもとになったのです。

 川中島は長野の東南・犀川と千曲川の合流する中に挟まれた地点の名称です。この地は越後・甲斐・上野三国に通ずる道路の要所で、謙信の居城春日山から約68キロ、信玄の本拠地甲府からは約150キロの地点です。ここで、奇しくも戦国時代の武将中、最も用兵戦術に妙を得た二名将が、長年にわたって戦い、竜虎相搏つ合戦が展開されることになったのでした。

 天文23年7月、信玄が兵を進めて来ました。謙信は急を聞いて出陣しますと、信玄は逸早く逃げ帰りました。翌弘治元年(1555)7月、謙信が大軍を率いて出陣しますと、信玄は急を知って出陣し、犀川を挟んで対陣して、10月まで百数十日間、向かい合ったまま過ぎました。そこで、信玄は駿河の今川義元に頼み、和睦を申し入れました。条件としては、信玄方の旭城を毀し、以後攻略しないということでした。そこで、両軍が合意して引き上げました。ところが、信玄はこの条件を破り、翌弘治2年再び動きはじめ、3年2月、信玄は葛山城を攻めとり、3月に飯山城に迫りました。謙信が軍を出しますと、信玄は逃げ帰りましたので、謙信は葛山・旭山の両城を奪い返しました。
永禄2年(1559)謙信が京に上りますと、信玄はその隙をねらおうとしました。京都では、信玄の非を責め、将軍は謙信に信濃を助けて信玄を討てと命じました。そこで謙信はいよいよ信玄との決戦を決意したのでした。

 信玄は、永禄3年、川中島の近くに海津城を築き、信濃から少しも手を引こうとしません。永禄4年(1561)、謙信は関東の乱を鎮め、関東管領上杉憲政の頼みを受けて上杉氏を継ぎました。その隙に、信玄が信濃に兵を出したのです。上杉方の将兵は大いに怒って、信玄征伐の意気に燃え立ちました。謙信は、6月関東より越後に帰るや軍備を整えました。

 謙信は、春日山城をはじめ越後の要所に諸将を配置して国内を固め、8月14日、一万三千の兵を率いて出発しました。

 謙信は信濃に入りますと、15日には善光寺に到着、大荷駄と兵5千を後詰として残し、16日、自ら八千の精兵をと小荷駄を率いて、犀川を越え、千曲川を渡って敵地に入り、海津城を見下ろす妻女山に陣を布きました。一挙に敵地深く侵入した大胆で機敏な作戦でした。

 一方、武田信玄は、上杉勢出陣の報を聞き、かねてからこの日のあるのを予測していただけに、好機来るとばかり、8月18日、一万七千の兵を率いて甲府を出発し、途中の軍三千を合わせてその勢二万。23日には腰越に至り、状況を考えて、24日、茶臼山に陣を布きました。これは、妻女山よりも善光寺寄りで、上杉軍の退路を遮断する位置であり、また妻女山は海津城と茶臼山から挟まれる位置となりました。両者はここに策を凝らし、秘術を尽くし、絶妙の作戦を展開しました。

 しかし、この作戦は長期間となれば、上杉勢は兵糧を絶たれて不利になります。妻女山の将兵には次第にあせりの色が見られ、中には退陣を勧める者も出て来ました。しかし、謙信は胸中深く期するところがあるのか、平然として、陣中に愛用の琵琶「朝嵐」をとって得意の曲を弾き、時には小鼓を打って近習に謡わせています。この敵を呑んだ態度は、将兵の心を鎮め、一方、武田方には、何とも不気味なものに感じられるのでした。

 ところが、8月29日、信玄は突然茶臼山の陣を払って、海津城に入りました。どうして、武田方が有利な態勢をくずして陣を払ったのかは謎とされています。長期戦の構えをとるためだと説く人もありますが、信玄が妻女山の状況を探り、謙信の態度を知って、何か作戦が隠されていると思い込んだというのが正しいかも知れません。

 9月9日は重陽の節句です。海津城内も妻女山も陣中に節句を祝っていました。その時、すでに信玄は軍議を開いて進撃の作戦をしていたのです。それは、軍を二つに分け、一軍は一万二千をもって妻女山の後方から夜襲をかけ、他の軍は八千の兵を信玄自ら指揮して川中島に陣し、追われて逃げて来る上杉勢の退路を遮断して全滅させようという恐ろしい作戦でした。そして、後方に回る一軍は、地理に詳しい海津城主高坂弾正昌信(たかさかだんじょうまさのぶ)が指揮することになっていました。

 謙信は、その夕方、山頂から海津城を眺め、いつもより炊事の煙が多くのぼるのを認めました。これで作戦の動きありと判断した謙信は機先を制して敵を奇襲しようと考え、直ちに諸将を集めて策を授け、出動の命令を下しました。それは敵の啄木(きつつき)の戦法の裏をかき、敵の本陣を突く作戦でした。陣中は、いつものように篝火を燃やし、午前零時過ぎ、月が西山に没するのを見るや、謙信は全軍に進発の命令を下したのです。八千の兵は隊伍整然として妻女山を下り、千曲川を渡り、甘糟近江守(あまかすおおみのかみ)の一隊を川の西岸に残して高坂軍に備え、午前2時半、川中島に七陣の戦闘隊形を整えて戦機を待ったのでした。

 武田方は、それとも知らず、高坂弾正の率いる一万二千の兵が10日午前零時に海津城を出て、妻女山の裏に回り、本隊八千は午前4時に城を出て千曲川を渡り、川中島に陣を布きました。

 10日の朝を迎え、暁の霧が消え始めるころ、信玄の陣は前方に物影を認め、探ってみると、これはどうしたことか三、四百メートル先に上杉軍がいるのです。信玄は俄かに陣を立て直して弓鉄砲で防げば、上杉勢は鉄砲隊弓隊の攻撃のもとに、懸乱竜(かかりみだれりゅう)の旗をさっと翻して、全軍総突撃の命が下っていました。兜を伏せて敵を見ず、旗を倒しての突撃です。先鋒隊の柿崎軍がまず激突し、武田方の勇将山県昌景(やまがたまさかげ)が側面から襲えば、上杉軍のニ陣が突入し、両軍の猛将勇卒は、年来の武名にかけて、ここを先途と闘ううち、武田方は敗色濃く、この日の隊長で信玄の弟信繁をはじめ重臣諸角豊後守(もろずみぶんごのかみ)・山本勘助等相次いで討死し、信玄の嫡子義信も負傷したのでした。

 この混戦の中で信玄が陣を立て直して側面を防ごうとした間戟を縫って、謙信はただ一騎信玄の本陣に突入し、信玄に斬りつけたと伝えられますが、上杉家の正式な記録によると、斬り込んだのは上杉方の武将荒井伊豆守と書かれています。こうした乱戦も、午前10時ごろには、武田方の総崩れになろうとした時、妻女山の空陣地に登った高坂弾正の一軍が、千曲川で甘糟隊におさえられながら、かろうじて川を渡って駆けつけ、背後から攻めて来ましたので、上杉方は犀川の方に退去を開始しました。甘糟軍は勇敢に防戦して、上杉軍の犀川渡河を援護しましたが、半ば渡河した頃に高坂弾正の一隊が追撃して来ましたので、上杉方は防戦となり大きな損害を受けることになりました。

 この合戦は、前半は上杉方の勝利、後半は武田方の勝利といわれ、上杉方の戦死者が三千百十七人、武田方は武田信繁をはじめ二千七百五十人。両軍の戦死者は参戦総数の四分の一にあたり、これがわずか6時間ほどの合戦であつたことを考えれば、この戦闘は戦史上稀に見る激戦でありました。

 この川中島合戦の折に、謙信が使用した琵琶の名器「朝風」と信玄を斬りつけたという長光の名刀は、今も上杉神社にあり、日本戦史上、稀な名将の面影を偲ぶことができます。
学徳兼備の英雄
 謙信が戦場に用いた旗は、一つは皇室より賜った「天賜の御旗」、次に日の丸の軍旗、刀八毘沙門天の旗、懸乱竜の旗であり、馬標は紺地に日の丸の大扇でした。それは、自らの軍隊は、天に向かって恥じることなく、太陽のように闇を明るくし、毘沙門天に代わって世の中の邪な悪者を懲らしめる正義の軍であり、一度戦えば天から風を呼んで飛びかかる竜のごとく雄々しく勇ましい軍であることを示したものです。

 出陣の際には、まず神仏に祈願文を奉って、戦わねばならない理由を明らかにし、敵の罪状を露にして禍根の絶ち消えることを祈り、また武てい式という出陣の儀式も行いました。

 このような謙信の心は、先祖以来の尊皇の伝統と、仏道修行や儒学・古典の学問に培われた精神によるものでありしょう。朝に契って夕には破り、義より策略を重んじた戦国の世に、正義、潔白を重んじ、身を清く生き抜いた謙信は戦国の偉人といえるでしょう。
謙信は、戦争に明け暮れるあわただしい生活の中にも、学問、文学、諸芸の道を深めていました。

 儒学は山崎専柳斎秀仙(やまざきせんりゅうさいひでのり)を招いて、四書・五経を講じさせ、老子荘子をはじめ諸子百家といわれる中国の賢人の学説を学びました。また、源氏物語や伊勢物語等の古典を読み、和歌・連歌を習い、近衛・一条・西園寺等、京都の名士とは、この面で風雅な交際を続けました。
また、漢詩も作り、天正5年、七尾城を囲み、織田信長の軍が北上して来るという報せを受け、将兵は闘志を燃やしている折、明月に月見の宴を張り、詠じたのが有名な「九月十三夜」の作なのです。

 謙信は、書道にもすぐれ、初めは父の書法を習いましたが、後に近衛稙家に習ってえん麗さを加えました。近衛家は青蓮院流書家の正統なので、その書風に染まれたのでしょう。「第一義」の額や、「伊呂波尽」「名字尽」「消息手本」などがこの書法であり、この三冊は景勝のために手習手本として書き与えたものでした。

 その上、茶道は紹鴎(じょうおう)と利休を師とし、謡曲は自ら仕舞と太鼓を演じ、一節笛を吹くこともあり、能も好んだので、将軍義輝は謙信を室町邸に招いて能楽を催しました。琵琶も巧みで遺愛の「朝風」が伝えられています。

 武芸においては、剣道のほかに槍は佐野天徳寺を師範として習い、馬術は八条広繁を師として第一の乗り手と称されました。軍学については、孫子・呉子の兵法を研究し、14才の初陣から采配をとって軍兵指揮の経験を積み、特に源義経を慕って武将の手本と考えていました。日ごろ修行を積み、胆力絶倫で、知勇技能は群を抜き、精悍さは人を圧倒するものがありました。

 鉄砲が日本に伝わって来ると、直ちにこれを採用して、戦術を改善し、部下を訓練して、規律と組織を重んじ、大軍を手足のように操縦する近世戦術を作り、信玄の戦法と共に、戦国時代兵法の極致と称されています。

 謙信の信念は仏教の修行によるものであったといえましょう。7才にして林泉寺の天室和尚について修行して以来、終生仏門から離れませんでした。常に参禅修養を忘れず、天文22年、24才で上京の折、京都大徳寺の普応大満国司(ふおうだいまんこくし)に参禅して大いに得るところがあり、在俗のまま授戒を受けて宗心の法号を与えられました。弘治2年、27才で出家を願いましたが、臣下が結束して思い止まったこともありました。しかし、仏縁は断ち難く、常に左手には数珠をもち、観世音菩薩の大慈悲心を世にひろめ、大日如来の大願を達成するため、邪悪を払う毘沙門天の仏力に祈願しました。「第一義」の篇額を掲げ、不識庵(ふしきあん)と号したのも、禅の道で、中国梁の武帝と達磨大師との禅問答に感ずるところがあってのことでした。

 禅によって悟った境地が戦陣の心得にも表われ、春日山城内の壁書に「運は天にあり、鎧は胸にあり、手柄は足にある。いつも敵を掌に入れて合戦をするべきである。そうすれば敗けることはない。死のうと戦えば生き、生きようと戦えば死ぬものである。これは不定のようだが、武士の道は不定と思ってはならない。必ず一つの定まっているものがあるのだ」とさとされてり、深い仏道の心境が窺える詞です。

 天文22年には、高野山金剛峯寺に詣で、高徳の名僧清胤(せいいん)を訪ねて密教の真義を修め、永禄2年、再び訪ねたとき、弘法大師の真筆を贈られました。これが今、上杉神社宝物殿にある有名な「綜芸種智院式並序」(しゅげいしゅちいんしきならびじょ)です。清胤は永禄5年に越後を訪れるなど、固い師弟の契りが結ばれました。元亀元年、法名を謙信と改め、天正2年、45才の12月19日、清胤を師として伝法の式をあげ、これから剃髪して、全く出家姿となり、天正4年には阿闍梨大僧都(あじゃりだいそうづ)の位階が与えられました。

 この謙信の精神は、政治上にも表われ、国の安全を願って神仏に祈り、「厚く仁を施し、普く徳を布く」ことを根本と政治をしました。

 謙信は、天正6年(1578)、大軍を集結して、征途にのぼろうとして、3月9日、病気になり、病むこと5日、13日の午後2時逝去しました。時に49才でした。葬儀は3月15日、大乗寺良海を導師として行われ、壮厳を極めたものでした。  遺骸は甲冑をつけ、甕に納めて密封し、城内の不識庵に納めました。二代景勝が、慶長3年(1598)、会津に移りますと、遺骸もまた会津城内に移され、さらに慶長6年、景勝は遺骸を奉じて米沢に移り、城内の御堂に安置しました。正面に霊柩、右に善光寺如来、左に泥足毘沙門天を納めて守護の掟を定め、大乗寺・法音寺をはじめ二十一寺、僧50名をもって廟務を掌り、以来三百年、藩祖を崇敬することは他にその類例のないほどでした。

 廃藩の後、明治5年、上杉神社を創建し、4月29日を祭日と定めました。これは、謙信逝去の天正6年3月13日を太陽暦に換算して定めたのです。また、遺骸は明治9年10月8日、上杉家歴代の廟所の正面に祀りました。

 こうして、戦国の英雄上杉謙信は米沢に祀られるに至ったのです。
米沢児童文化協会編 『郷土に光をかかげた人々』より
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