山形県米沢市|戦国武将と米沢市の観光情報

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上杉景勝−米沢藩初代藩主−

 上杉景勝は弘治元年(1555)、越後魚沼郡上田城に生まれました。幼名は喜平次顕景(きへいじあきかげ)といいました。父は長尾越前守政景(ながおえちぜんのかみまさかげ)、母は長尾信濃守為景(ながおしなののかみためかげ)の娘で、謙信の姉にあたります。

 父政景は景勝が10才の時になくなりましたので、叔父の謙信のもとで育てられました。謙信は仏門に入り、妻も子もありませんでしたので、喜平次を養子と定め、天正3年(1575)1月11日、喜平次が21才の時、姓名を上杉弾正少弼景勝(うえすぎだんじょうしょうひつかげかつ)と改めさせ、世嗣と定めました。天正6年3月13日、謙信が亡くなったので、景勝がその後を嗣ぎ、諸将・諸国に報じました。ところが、以前、謙信が北条氏康の七男氏秀を養子とし、景虎(かげとら)と称していましたが、この景虎が上杉氏を継ぎたいという志を捨てず、景勝を攻めようと企てました。しかし、景勝にこのことを見抜かれますと、景虎は春日山城を逃げ、援軍を北条氏求めました。
北条氏は武田勝頼と同盟を結び越後を攻めようとしました。景勝は関東の北条と南の武田の両軍を迎えることになるので、武田軍との和睦の道を開こうと、景勝から誓詞を出して武田勝頼と和を結び、景虎を攻めました。景虎は破れて自刃し、乱は治まりました。

 天正7年、10月20日、景勝は武田勝頼の妹菊姫を奥方に迎え、継嗣の乱を契機に上杉・武田の間は姻戚関係になったのです。

 天正9年9月には、継嗣の乱の恩賞を不満として家中に事件が起きました。翌10年正月には武田勝頼は、織田・徳川・北条の連合軍と戦い天正10年3月、天目山に自刃して武田氏は滅亡し、織田信長は天下平定を前にして明智光秀に討たれ、その後を受けて、豊臣秀吉は国内の統一を急いで、景勝に和を乞いました。景勝はそれに応じ、天正14年6月14日、大坂城で秀吉に会いました。秀吉は大いに歓待しました。22日、参内して、7月、越後に帰り、10月、新発田重家を討伐し、天正16年5月、再び上京し、従三位、参議に任じられました。6月、秀吉は在京の禄として近江の三郡を景勝に与えました。
秀吉は北条氏討伐を企てましたので、景勝はこれに参加し、前田利家と協力して、6月14日、鉢形城を落とし、24日には八王子城を攻略しました。7月11日、北条氏政は自刃し、北条氏は滅びました。

 朝鮮の役がおると、景勝も出征することとなり、文禄元年(1592)3月1日、越後を出発、4月7日に肥前名護屋に到着して待機しました。4月25日には秀吉も名護屋に到着しました。景勝は6月2日出発と決まりましたが、秀吉もこの時いっしょに自ら朝鮮に渡ろうとしました。しかし、重臣に止められてとどまったのでした。秀吉は上杉軍5千の将兵の勇姿を眺め、出発しようとする景勝に『上杉や景勝いろの門出かな』と、句を作って示しました。上杉景勝の名を詠み入れ、杉と影とを縁語に用い、勝利の色が今から見える上杉軍の門出であることよと詠んだのです。
慶長3年(1598)1月、秀吉は会津城主蒲生秀行を宇都宮に移し、景勝をその後任とし、百二十万石の領地を与え、奥州諸大名のおさえとしました。景勝は、秀吉の信頼が厚く、五大老という最高の地位にいて、秀吉の政治を輔けていました。景勝は、3月24日、会津若松城に入り、諸将の配置を行いました。その領地は、福島県の白河以北から山形県置賜地方と庄内地方、それに佐渡を含む広大なものでした。

 ところが、慶長3年8月18日、豊臣秀吉が63才で亡くなりました。五大老の一人徳川家康は、その後の政治を次第に独占し、勢力を広めて、わがままなやり方が多くなりました。景勝は会津に移ったばかりなので、城を修理し、領内を整備しているときに、家康は景勝の心を疑って、伏見城に来るように使いをよこしました。景勝は、家康のやり方をなじって、呼び出しに応じませんでした。家康は、上杉氏討伐の軍をおこし、自ら軍を率いて伏見城を出発しました。時に慶長5年6月18日で、7月2日江戸に着きました。家康は江戸城に軍議を開き、7月21日江戸出発と決定しました。その軍勢は五万九千と称しました。景勝は若松城に軍議を開き、白河の南方革篭原に敵を誘い、ここで一挙に全滅させようと綿密な作戦をたて、上杉氏の兵五万、他に奥州浪人数万を合わせて陣を布きました。革篭原の正面に本庄繁長が四千の兵を率いて布陣、敵に押されて退き、敵を原に引き寄せる役とし、その後方に安田能元、島津久秀が兵六万をもって待ち受け、直江兼続は兵三万をもって朴坂にあり、家康軍が鬼怒川を渡るのを見るや、西側から側面を突いて出、この時、すでに関山の麓に陣を布く千坂・斎藤・長尾・三宝寺・村上・色部・竹俣の諸将は東から敵の後方を突く。景勝は八千の精兵を率いて長沼にあり、敵の本陣を攻めてこれを全滅させるという作戦でした。棚倉に待機して後方の退路を断つ役を引き受けた佐竹勢が変化はしたものの、この陣立てで、謙信に従って軍功のある歴戦の部将を揃えている上杉軍の実力は強大であり、まさに川中島の合戦以来の大決戦が展開するかに見えました。

 その時、石田三成が関ヶ原に旗揚げをした報せが徳川軍に入り、先陣が宇都宮、本隊が小山まで来た徳川軍は、秀忠を後備に残して引き返してしまいました。上杉軍では、すぐに徳川軍を追うかどうかを軍議しました。追えば勝という意見が圧倒的に多かったのですが、景勝は断乎としてこれを許さず、陣を払って会津に帰城しました。

 徳川方に通じていた仙台城主伊達政宗や山形城主最上義光は上杉領を襲おうとしましたので、白石・福島・山形と各地に激戦が行われましたが、関ヶ原の役が西軍の敗北に終ったので、それぞれ停戦となりました。

 関ヶ原の役の結果、上杉氏の領地は削られ、景勝は米沢三十万石の城主とされ、領地は伊達・信夫・置賜の三郡となりました。慶長6年(1601)11月28日、景勝は米沢城に入城しました。

 これより以後、明治維新まで、およそ270年間、米沢城は上杉氏歴代の居城となり、米沢はその城下町として栄えました。

 景勝は、自分に従って米沢に移る将士はことごとくこれを許し、食禄を3分の1に減じて与えました。越後以来の家臣は、ほとんど去ることなく、六千余の藩士が主君に従って米沢に移り住みました。この総指揮は直江兼続がとり、米沢藩政の基礎がここに固められたのでした。
 慶長19年(1614)11月、大坂の陣がおこりました。景勝は、25日、鴫野に陣を布き、翌26日、戦闘が行われました。この日、景勝は暁より夜まで大和川の堤に陣して、紺地日の丸の軍旗、毘の字の旗を押し立て、床几に座して観戦し、弾丸が雨と飛び来る中で少しも動じません。直江兼続は後備の軍を指揮して、戦況を監視し、これも陣にいて少しも動じません。先陣・ニ陣・前・右・左の各備の部将はよく指揮して敵を追いまくります。この戦況を眺めていた家康は、さすが上杉軍であると感心しました。

 この合戦で、先陣の将須田長義、右備の将水原親憲、軍奉行黒金泰忠、直江軍の将坂田義満等が家康より感状をもらいました。

 翌元和元年の5月、再び大坂の陣がおこり、景勝も出陣しました。景勝は豪毅果断・潔白謹厳な方でした。刀剣を愛し、刀剣の鑑識眼もありました。上杉神社の宝物に伝わる名刀や遺品は、武人景勝の面影を今に偲ばせています。

 景勝は、元和9年(1623)3月20日、69才で逝去したので、新たに廟所を造って葬りました。景勝の霊は大正12年4月、松岬神社に合祀されました。
米沢児童文化協会編 『郷土に光をかかげた人々』より
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